時計メーカーのマニュファクチュール化は正か?否か?
エタブリスールという概念が、スイスの時計産業界を衰退させた―ニコラス・G・ハイエック


ローザンヌ工科大学とのリレーションで、驚異的なオリジナリティーを魅せる「ドゥ・ベトゥーン」


■エタブリスールとマニュファクチュール
フェラーリを手に入れたのにエンジンが日産、シャーシがルノー、ボディーがフィアット製だったら,、さぞ驚くことでしょう。でも高級時計の世界ではそれが当たり前。時計メーカーの多くは、最初から自分たちで作らない。ムーヴメントや針などを開発・生産するメーカーから部品を買い付けてきて、それを寄せ集めて時計を作るのが一般的です。これが「エタブリスール」と呼ばれる生産形態。一方、ムーヴメントなどを自分たちで一貫生産する時計メーカーも存在する。それが「マニュファクチュール」で、全メーカーの数からすれば少数派です。

■エタブリスールからマニュファクチュールへ
ところが近年、自分たちでムーヴメントなどを開発・生産するメーカーが急増中。寄せ集めで時計を作るエタブリスールから脱却し、自社生産するマニュファクチュールへと転身しようという試みです。その原因はETA社の2010年問題に起因。これまで数多くの時計メーカーにムーヴメントを提供してきたETA社が、2010年を目処にその供給先を著しく制限することを決定したためです。当然、時計のエンジンともいえるムーヴメントがなければ時計は作れない。各社ともやむを得ない形で、自社生産する道を選んだのが実情といえます。


ドゥ・ベトゥーンは調速機・脱進機のすべてが独自規格。機械式時計の範囲内で最大限の革新性を表現。


■マニュファクチュール化することでのメリット
ムーヴメントなどを自社生産するようになると、世間からの好感度がアップする。そのほうがメーカーとしてのアンデンティティーをアピールしやすくなるためです。考えてもみてください。寄せ集めで時計を作るメーカーが大半を占める現状に、あなたは疑問を抱きませんか?たしかに事情通のマニアなら「昔ながらの伝統」として理解を示すこともできますが、普通はそう簡単に割り切れるものではありません。高級時計はクラフトマンシップの結晶体であってほしい…と望むのが世間の声であり、それに応えるのが「自社生産」という看板です。

■マニュファクチュール化によるデメリット
なんといっても販売価格が高騰する。自社生産するための人件費・設備費・開発費が膨大にかさむためです。従来は20万円で販売することのできていた時計が、自社生産することで40〜60万円以上にまで値上がりする可能性も。そうなれば当然、顧客離れも深刻な問題になるでしょう。このような極端な値上げを抑えるにはコスト削減が不可欠なものの、やみくもに進めるだけでは時計自体のクオリティーが低下しかねない。価格だけが値上がりして品質はダウンするという、きわめて理不尽なシロモノに成り下がる危険性も否定できません。


ブレゲはムーヴメント生産メーカー・レマニア社を買収して機械を作っているので「自社生産扱い」に。
この自社製ムーヴメントを他社に供給して得た収益で、開発費を一定水準まで相殺しています。


■エタブリスールの正義
エタブリスールだからといって、決して横着ばかりしているわけではありません。買い付けてきたムーヴメントにチューンアップを施したり、美しい細工を施すなどの企業努力もしている。仕入れてきた部品を、そのまま使用しているわけではないのです。たしかに自社生産することに比べれば、その作業自体は簡素なものかもしれません。しかし開発費や人件費を抑えられるからこそ、いたずらに値上がりする事態を招かずに済んでいる。コストを抑えてさらなるクオリティーアップを目指す…これがエタブリスールの真実でもあり、正義なのです。

■エタブリスールは今後も健在!?
欧州の時計メーカーがエタブリスールを続けてこれたのは、裏方に徹するエボーシュメーカーのサポートがあってこそ。ムーヴメントを開発・生産するエボーシュメーカーの存在がなければ、大半の時計メーカーが路頭に迷わされてしまうことでしょう。そのため最大手のETA社が供給制限を設けたことによる影響が懸念されたものの、近年はセリタ社やラ・ジュウ・ペレ社、テクノタイム社といったエボーシュメーカーが台頭。彼らの実力は未知数ながら、スイスなどの時計産業界が今後もエタブルスールを続けていける体制は健在といえます。


旧東ドイツ圏内にも偉大なマニュファクチュールメーカーが存在。画像はグラスヒュッテ・オリジナル。


■マニュファクチュールか?エタブリスールか?
莫大な人件費を掛けてクラフトマンシップを追求するマニュファクチュール・ブランド。時計の中身までも自社生産しようという理念は立派ですが、それが必ずしも良い結果を生むとは限らない。クオリティーの低下や、価格の高騰を招きかねないからです。それなら各社とも、自社生産化に踏み切る必要性はなかったのではないか?わざわざリスクを冒してまでマニュファクチュール化するよりも、今後もエタブリスールであり続けたほうが無難で堅実。そのほうが品質的にも価格的にも、良心的だとする見解も根強く残っています。

しかしここで再度、あなたに問いたい。自分たちでムーヴメントや部品を作れもしないメーカーが、高級時計メーカーの大半を占めていることに疑問を抱きませんか?スウォッチ・グループの帝王ニコラス・G・ハイエックの弁を借りれば「エタブリスールという概念が、スイスの時計産業を衰退させてしまった」のだとか。自社生産しないメーカーばかりでは技術開発の競争意識も薄く、スイスの時計産業界そのものが衰退していくとの主張です。彼の言葉には政治的・戦略的な下心があるとはいえ、物づくりの精神としては筋が通っています。

そして僕ら購入者の側にも、製品を見抜く“眼”が必要です。自分の懐具合と相談しながら、マニュファクチュールとエタブリスールから選ばなくてはならない。メーカーや機種による「良し悪し」まで吟味することになるでしょう。パテック・フィリップなどの一流品をスンナリと買える身分でもない限り、虎の子の予算内で慎重に見極めていくしかない。ただしこうした眼力を鍛えるのも、趣味の醍醐味。時計メーカーの自社生産化で個性的なモデルが増加し、選択肢の裾野が広がることは、僕らにとっては歓迎すべきことなのかもしれません。

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